2009年11月14日

イエスの十字架の死と復活 -その史実と意味(5)

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キリストの十字架の死 まとめと追加

「1.キリストは私のために十字架にかかって死んでくださった。」
もしもそのように易しい言い方で伝えるのだとすれば −>
「2.私もキリストと共に十字架にかけられ罪に死にました。」
も実感してもらいましょう。そして、それだけに終わらずに −>
「3.私も自分の十字架を負ってキリストに従います。」
という決心にまで至っていただきましょう。

これは、私が、「クリスチャンになりたい」方」々に、キリストの十字架を伝えるときのポ
イントです。
しかし初心者の方々が、1.でとどまり、2.を実感できず、3.にまでは至らずにおられる場合が少なくない現実を、私は知っています。

キリストの十字架について、ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシヤ人は知恵を追求しますが、それどころか、はじめから無視しているのがほとんどの日本人です。十字架のことばは、日本人にとっては愚かであっても、救いを受ける私たち日本人クリスチャンには、神の力です。

1コリント
1:22 ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシヤ人は知恵を追求します。
1:23 しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、
1:24 しかし、ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。

イエスの十字架の死という歴史的事実を認め、それが、神にそむいている人間をその罪から救歌目であったと言う意義を理解できるならば、 自分も<キリストと共に十字架につけられて>罪に対して死に,罪から解放されたことを知っていただきたい。

そのことに気づくことができるように、成長なさっている皆様は、まだ初心者の方々を忍耐強く励ましていただきたいのです。

しかし上記のステージ3.「私も自分の十字架を負ってキリストに従います。」にまで至るのは、すでに成長をはじめたクリスチャンにとっても、実際にはけっして容易なことではありません。それどころかそこで躊躇して、今のままでクリスチャンでありたいと願うのです。

マルコ 8:34 それから、イエスは群衆を弟子たちといっしょに呼び寄せて、彼らに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。

というイエスの命令については、いくつもの説教があります。そのひとつを紹介しましょう。
これは成長なさっている皆様に対しての私の説教ではなく、皆様が、まだ成長途中の後輩クリスチャンを励ますために用いていただきたいためです。

★ 自分の十字架を負うとはなにか?

十字架はローマの極刑である。刑を宣告された者は、自分の十字架を背負い、辱めのうちに引き回され、公衆の前ではりつけになる。
イエスからこの言葉を聞いた、当時その場に居合わせた人々は、イエスと同じ殉教をイメージしたはずである。
自分を捨て、主イエスに従って行く生き方に、後戻りはない。殉教さえも覚悟した上で「わたしについて来なさい」と主は迫られる。

ここに言う「自分を捨て」は、世を捨てて修道院に入ることではありません。
この世において自己を捨てるのです。すなわち、一切の一自己主張をやめて、完全にキリストの奴隷となることです。そしてキリストが受けられたあらゆる苦しみや侮辱など、その十字架を負ってキリストについて行くことです。

しかしはっきり言って、人にとりこれ以上の困難と難問はありません。
他のことは何でも受け入れますが、この一事だけは拒否するのです。しかし、これを拒否して私たちは誰もキリストのしもべとはなれませんし、キリストの生命、恵みにも与ることはできません。
しかし、もしあなたがキリストがここで語られる言葉を信じて、ペテロやヨハネやパウロなどのように、一切を捨ててキリストに従うならば、あなたの人生に大革命が起こるでしょう。(説教引用終わり)

村川注)こうして,信仰者は自らすすんで「キリストの苦難にあずかる」のですが、それは自己犠牲だけに終わるものではありません。
そのことにより,キリストの復活に達することを求める者となることができるのです。
終わりの日にキリストと同じく復活して、栄光の体に変えられる希望の確信のゆえにです。

ピリピ
3:10 私は、キリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って、キリストの死と同じ状態になり、
3:11 どうにかして、死者の中からの復活に達したいのです。
3:14 キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。

★ 神と人との和解について

次のような図をご覧になったことがおありでしょう。神と人との和解のための十字架すなわち橋を示しています。


   イエス・キリスト
      |
人  −   −  神
      |
      |
 
人が渡ることができない深い淵


初心者の方に、神と人との和解について易しく説明するときに、この図は便利ですし、十字架の意味を直感的に分かってもらえるでしょう。

そこで、説明者あるいは解説者となられるであろう皆様のため、「和解の教義」を整理しておきます。

捨てるべきは煩悩(欲望)とされる仏教では、諸仏との和解は必要なく、払うべきは穢れであるとする神道でも、神々との和解は、「たたり」と言う低い次元でしか捉えられていません。「仏ほっとけ、神かまうな」とか、「さわらぬ神にたたりなし」という日本の諺のようにです。
しかしクリスチャンにとって、神との和解がなければ、クリスチャンにさせていただくことはできません。

和解は、不和、疎遠となった当事者間の一致と交わりの回復への状態変化を言い、聖書には、人間同士の和解とその必要も語られていますが(注1)、特に救いに関して、神と人間との敵対関係の完全な回復を指し、義認、贖いと密接な関係を持つ用語です。

注1)
マタイ5:23 だから、祭壇の上に供え物をささげようとしているとき、もし兄弟に恨まれていることをそこで思い出したなら、5:24 供え物はそこに、祭壇の前に置いたままにして、出て行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから、来て、その供え物をささげなさい。

◆和解の教義

(1)人間と神との間の断絶と敵対関係は,人間の罪の性質と神の義にして聖なる性質の大きなギャップに起因する。人間の神に対するかたくなな敵意とこの世の罪への迎合は、神の恵みの遮断をもたらし、神の怒りとさばきを招く結果となった。(注2)

(2)このような人間と神との和解は,神がよしとされるなだめの供え物を通してのみ成立する。

ローマ3:25 神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現わすためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。

▼旧約時代には,いけにえの動物の血による贖いの儀式が行われた。

レビ記 16:15 アロンは民のための罪のためのいけにえのやぎをほふり、その血を垂れ幕の内側に持ってはいり、あの雄牛の血にしたようにこの血にもして、それを『贖いのふた』の上と前に振りかける。

▲しかし、新約においては、神と人との仲保者なるキリストがいけにえの小羊としてささげられたことにより、この和解の契約は完全に成就した。すなわち,御子の死を通し、十字架により、キリストの流された血によって、人間を神と和解させてくださったのである。(注3)

引用聖書箇所
注2)

■コロサイ
1:21 あなたがたも、かつては神を離れ、心において敵となって、悪い行ないの中にあったのですが、1:22 今は神は、御子の肉のからだにおいて、しかもその死によって、あなたがたをご自分と和解させてくださいました。それはあなたがたを、聖く、傷なく、非難されるところのない者として御前に立たせてくださるためでした。

エペソ
2:1 あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、 2:2 そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。
2:3 私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。
2:4 しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、
2:5 罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。

■イザヤ
59:1 見よ。主の御手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて、聞こえないのではない。 59:2 あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。

ローマ
1:18 というのは、不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正に対して、神の怒りが天から啓示されているからです。
2:2 私たちは、そのようなことを行なっている人々に下る神のさばきが正しいことを知っています。
2:5 ところが、あなたは、かたくなさと悔い改めのない心のゆえに、御怒りの日、すなわち、神の正しいさばきの現われる日の御怒りを自分のために積み上げているのです。

注3)
出エジプト
12:12 その夜、わたしはエジプトの地を巡り、人をはじめ、家畜に至るまで、エジプトの地のすべての初子を打ち、また、エジプトのすべての神々にさばきを下そう。わたしは主である。
12:13 あなたがたのいる家々の血は、あなたがたのためにしるしとなる。わたしはその血を見て、あなたがたの所を通り越そう。わたしがエジプトの地を打つとき、あなたがたには滅びのわざわいは起こらない。

レビ記
16:11 アロンは自分の罪のためのいけにえの雄牛をささげ、自分と自分の家族のために贖いをする。彼は自分の罪のためのいけにえの雄牛をほふる。

16:12 主の前の祭壇から、火皿いっぱいの炭火と、両手いっぱいの粉にしたかおりの高い香とを取り、垂れ幕の内側に持ってはいる。
16:13 その香を主の前の火にくべ、香から出る雲があかしの箱の上の『贖いのふた』をおおうようにする。彼が死ぬことのないためである。

16:14 彼は雄牛の血を取り、指で『贖いのふた』の東側に振りかけ、また指で七たびその血を『贖いのふた』の前に振りかけなければならない。
16:15 アロンは民のための罪のためのいけにえのやぎをほふり、その血を垂れ幕の内側に持ってはいり、あの雄牛の血にしたようにこの血にもして、それを『贖いのふた』の上と『贖いのふた』の前に振りかける。

■エペソ
2:12 そのころのあなたがたは、キリストから離れ、イスラエルの国から除外され、約束の契約については他国人であり、この世にあって望みもなく、神もない人たちでした。
2:13 しかし、以前は遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスの中にあることにより、キリストの血によって近い者とされたのです。
2:14 キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、 2:15 ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するためであり、
2:16 また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。
村川享男(むらかわたかお)
murakawa@gol.com
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posted by ジョッピー at 06:04| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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